古くは山麓にあったといわれるお堂で、享保19年(1734)の再建棟札が現存しています。上寺山の他の建物に比べて簡素な印象を受けるお堂です。薬師如来を祀るため、正面の扁額には「醫王窟」とあります。お堂には薬師如来像(国重文)、聖観音像(国重文)、十一面観音像(県重文)等が収蔵されています。
毎月8日には護摩のご祈祷が勤められます。大太鼓が鳴り響くなかで、護摩供養を修法し、煩悩を焼き清め、厄災を消除しています。
上寺山餘慶寺は天平勝宝元年(749)報恩大師の開基と伝えられる備前四十八か寺の一つで、日待山日輪寺として開山されました。中興の祖慈覚大師円仁により日待山本覚寺と寺号を改め、本尊千手観音を奉祀し七堂伽藍が整えられました。
しかし檀家制度のなかった昔は、寺院の栄枯盛衰は著しく、12世紀末の源平の争乱によって今木城と共に一山塔頭や三重塔が焼失したと伝えられます。その後、寺院の復興は時代の進展と共に進みましたが、上寺山餘慶寺の成立を確認する史料はまだ発見されていません。就実女子大の柴田一先生のご研究では応仁・文明の乱(1467〜86)頃と推測されています。
現在の餘慶寺本堂は永禄13年(1570)赤枝弥三衛門光国が一族を結集して寄進し、入母屋造り・本瓦葺きで、室町時代の特色をよく留めています。昭和54年に国の重要文化財の指定を受けています。
現存する棟札には嘉永3年(1850)に再建されたとありますが、桃山末期から江戸初期頃のものと考えられるようです。元福山大学の澁谷教授は「外観は均整のとれた美しさの中に躍動を感じさせる秀作で、国重文に指定されている同型に比較しても注目される鐘楼」としています。屋根は東西の表裏面に軒唐破風をつけ、鬼瓦の上に鯱を飾ったりして意匠を凝らした豪華な造りになっています。平成16年に瀬戸内市の重要文化財に指定されました。
餘慶寺三重塔は源平の争乱の頃消失したと言われていますが、江戸末期になって本格的な木造三重塔の再興の気運が起こり、西幸西の草井幸衛門が6年がかりで寄進をつのり、文化12年(1815)に田淵市左衛門繁數を中心とした邑久大工の手により完成しました。高さ21m、一辺3.8mあります。
平成14年に岡山県指定重要文化財建造物に指定されています。
開山報恩大師をお祀りしているお堂で、本堂の北側にある小さなお堂です。
中国の天台山国清寺の地主神になぞられて、比叡山東山麓に比叡山を守る鎮守社として日吉神社(山王権現)があります。餘慶寺も比叡山と同じように日吉社を鎮守としてお祀りしている。
愛宕社は火難を防ぐ神様として古くから信仰されています。本地仏(神の本質とされる仏)として「将軍地蔵」がお祀りされており、毎年7月23日に開扉、法要がつとめられています。
日吉社
愛宕社
昔の十王堂を平成元年に再建し、本尊に地蔵菩薩を祀ることから地蔵堂に改名されています。あわせて祀られている十王は地蔵菩薩の化身といわれ、人の死後には、忌日にそれぞれの王が裁き、亡者を導くとされています。生前に嘘をついた者の舌を引き抜くのは有名な閻魔大王です。
地蔵堂
水子の供養、子供の健やかな成長を願う方々から信仰を集めています。
地蔵菩薩
このお地蔵様をお詣りすると乳の出がよくなるといわれ、特に女性から信仰されています。現在は子どもの健やかな成長を願う子安地蔵としても信仰されています。
子安地蔵堂
写経を納める塔で、宝暦10年(1760)に上道郡久保村鴨越の武田藤右衛門が施主として建立した。周囲の石柵には寛政8年(1796)、手前の石灯篭には宝暦11年(1761)ときざまれています。
法華塔
祇園牛頭天王とは東方浄瑠璃の世界の薬師如来の垂迹(仏が人々を救うために姿を変えて現れること)であす。
行疫神(病気を広める神の中で最高の霊力を持つ神様で、災厄の根元であるが、鄭重に祀ることで逆に守護神となるといわれています。
祇園牛頭天王堂
毘沙門天王は仏法を守る最強の守護神で、四天王の一人として北方を守ります。又の名を多聞天王ともいい、多くの願いを聞いてくださる福の神でもあります。
毘沙門天王堂
平成14年に中国観音霊場会と普陀山との友好交流10周年を記念して勧請した千手観音像で、餘慶寺のご本尊様にあわせて東向きにお祀りしています。
普陀山は入唐僧であった慧鍔大師が中国の五台山から観音像を勧請しての帰路に、難破してたどりついた島で、中国四代仏教聖地の一つとして観音信仰の中心的存在になっています。
千手観音像